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小熊秀雄展@熊谷守一美術館


熊谷さんの絵は、シンプルな線と色使いが素敵でした。

明治維新たかだか10余年後に、木曽の片田舎で生まれた守一は、岐阜市の町の小学生のとき、先生の教える楠木正成の忠義話が、明治になって為政者が急に持ち出してきた話だと思ったという。先生の話より教室の窓から舞い落ちる木の葉を眺めていては、始終立たされていたそうだ。それでも運動会の騎馬戦の一方の旗頭になったとき、負けそうになると校長が市長の息子という遠慮からか、終了の呼子を吹いたとのこと。

息子を商人に仕立てようとしていた父親の大反対を押して東京美術学校に入り、20世紀の開始を祝って、みんなで肌色パンツをはいて御輿をかつぎ気勢をあげたという。在学中父の急死と破産にあい、卒業したとき日露戦争だったので、樺太漁場調査隊にやとわれる。小舟で海岸線を回ったとき、1日の食いぶちをとると網もそのまま砂浜にじっと坐っているアイヌの人たちに魅せられたという。

守一は自分でも言っているように、いい絵を描いて褒められようとも有名になろうとも思わず、たまに描いた絵も売れず、長いこと千駄木や東中野の借家を転々として友人の援助で生きながらえてきた。1932年いま美術館になっている豊島区の千早に越して来た頃から、ぽつぽつ絵が売れて家族を養えるようになる。

小熊さんは詩人ですが、繊細な線の絵も素敵でした。
こちらも色使いが個性的です。

北海道小樽市稲穂町に生まれる。幼少期を樺太で過ごし、泊居高等小学校を卒業。養鶏場の番人など様々な雑務作業に従事した後、1922年より旭川で新聞記者を務める。この頃から詩作を始め、27歳で上京後は雑誌社や業界新聞で働きながら、雑誌『民謡詩人』などに作品を発表。1935年に長編叙事詩集『飛ぶ橇』で詩人としての地位を確立、自由や理想を奔放に歌い上げる作風で、詩壇に新風を吹き込んだ。詩作にとどまらず、童話・評論・絵画など幅広い分野で活躍した。

小熊の本の装訂をおこなった寺田政明ら池袋モンパルナスの画家たちと交流し、みずからも絵筆を執った。なお「池袋モンパルナスに夜が来た」という文で始まる詩を発表。「池袋モンパルナス」の名づけ親も小熊といわれている。

また晩年は、漫画出版社・中村書店の編集顧問となる。旭太郎名義で原作を担当した漫画『火星探検』(1940年)はSF漫画の先駆的傑作とされ、手塚治虫、小松左京、筒井康隆、松本零士らに大きな影響を与えた。

39歳で夭折。